越路吹雪 | ja
越路 吹雪(こしじ ふぶき、本名: 内藤 美保子(ないとう みほこ)、1924年(大正13年)2月18日 - 1980年(昭和55年)11月7日)は、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区麹町)出身の、シャンソン歌手。舞台女優(山梨県出身の説もある[要出典])。
旧姓の河野(こうの)より愛称コーちゃん、コッシー。
所属レコード会社は日本コロムビア(現・コロムビアミュージックエンタテインメント)→東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現・EMIミュージック・ジャパン)。
日本のシャンソンの女王。戦中~戦後にかけて宝塚歌劇団の男役スターとして活躍。
1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーし、特にシャンソンにおいては岩谷時子とともに数多くの名曲を日本に紹介した。
1958年(昭和33年)テアトロン賞、1965年(昭和40年)第7回日本レコード大賞、1968年(昭和43年)芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。
宝塚OGの枠を超えて国民的人気を博したため、美空ひばりや吉永小百合と並んで女性アイドルの源流とみる向きもある(もっとも越路・ひばり・吉永らの時代は芸能人に対して「アイドル」という言葉は使われず、「スター」と呼ぶのが普通であった)。
テレビの出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年(昭和39年)8月31日から始まったフジテレビ系音楽番組『ミュージックフェア』の初代司会者でもある。
夫は作曲家の内藤法美。子宝には恵まれなかったが最後まで連れ添った。プライベートでは家事の一切を越路が仕切り、特に掃除の腕前は素晴らしかったという。
喫煙者であったことでも知られる。越路を敬愛している和田アキ子いわく、「越路さんが煙草吸っている姿を人はみな”かわいい”というけど、私が吸うとみんなに恐れられるのよね」。
独身時代、三島由紀夫の恋人だったことがある。三島の母は、自分の息子が越路吹雪と結婚するものと思い込んでいたようだ。
また、彼女のファンの1人が佐藤栄作元首相夫人の佐藤寛子で、後援会会長を引き受けていたのも著名なエピソードである。 日生劇場でのリサイタルは、ほとんどが春、秋の二回で約1ヶ月におよぶロングリサイタルであった。
舞台衣装はニナ・リッチとイヴ・サン=ローランのオートクチュールであり、ニナ・リッチの本店には、彼女の胴の木型がある。
バッグが大好きなことでも有名で、エルメスやルイ・ヴィトン、フェンディなどを愛用していた。パリのエルメス本店で革の手袋を購入する際に「全色頂くわ!」と言った話は有名である。また、パリの有名店では「マダム内藤」で通っていた。
面倒見も良く、多くの芸能人から慕われた。宝塚歌劇団在団時、同期生である月丘夢路がぬきんでた美貌を嫉妬されて他の生徒から深刻ないじめにあっていたが、見かねた越路に救われたことを月丘本人が後年になって明かしている。
肝の据わった女性と思われがちだが、さすがにリサイタルの直前は極度の緊張におそわれたという。そのため、緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。
ステージに出る際は緊張も極限に達し、岩谷時子から背中に指で「トラ」と書いて貰い、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけて貰ってからステージに向かっていた。
晩年の1980年(昭和55年)、胃潰瘍との診断を受け、7月8日に目黒の共済病院で、胃の4/5を切除する大手術を受けた。術後の復帰を目指してリハビリに励んだが、その後も入退院を3回繰り返すものの、ついに助からなかった。
彼女の本当の病名は胃潰瘍ではなく胃癌であったが、最後まで本人には知らされなかった。死の直前、病床の彼女は意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。彼女は両親を共に癌で亡くしていることから、自身も一番癌を怖れ、毎年の癌検診を欠かさなかったが、亡くなる前年だけが、多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果となった。
なお越路の没した8年後に、夫の内藤も肝臓癌のため亡くなっている。
年表
1924年(大正13年)2月18日: 誕生。父・友孝は東京電燈のエンジニアだった。
1935年(昭和10年): 長野県飯山高等女学校(現長野県飯山南高等学校・長野県飯山高等学校)中退、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に合格。(同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。)
1937年(昭和12年)4月: 宝塚歌劇団入団。
1939年(昭和14年)2月: 初舞台。
1951年(昭和26年)8月: 宝塚歌劇団を退団。東宝専属となる。
1952年(昭和27年)1月: 『NHK紅白歌合戦』に初出場。以後1969年までに15回出場。
1959年(昭和34年)11月: 内藤法美と結婚。
1965年(昭和40年)9月: 母・益代死去。12月、第7回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1966年(昭和41年)2月: 父・友孝死去。
1968年(昭和43年): 東宝から独立、フリーとなる。
1969年(昭和44年): 東京・日生劇場でロングリサイタルを挙行(劇団四季制作)。以後恒例化。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれた。
1980年(昭和55年)3月: 日生劇場でのリサイタルが53回目で生涯最後となる。6月:劇団民藝主宰の宇野重吉演出で米倉斉加年共演で「古風なメロディー」西武劇場。7月:胃の手術を受けるがその後入退院を繰り返す。11月7日午後3時2分: 胃癌のため死去。56歳没。戒名は乗法院越路妙華大姉。
親友・マネージャー 岩谷時子との関係
越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても健在に活躍する岩谷時子の存在が大きかった。
岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。
越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社、共に上京し東宝に所属。東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも勤めた。(岩谷は1963年に東宝を退社)
また岩谷はマネージャー業の傍ら越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、越路の代表曲である「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」などは岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。
越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。
代表曲
『ラストダンスは私に』 - もともとはザ・ドリフターズの「Save the Last Dance for Me」をカバーした曲。
『愛の讃歌』- この曲が収録されているレコード・CD等の売上枚数は200万枚以上を数える。
『挽歌』- 同名映画の主題歌。
『ある愛の詩』- 同名映画の主題歌。
『イカルスの星』
『サン・トワ・マミー』
『夢の中に君がいる』
『誰もいない海』
『夜霧のしのび逢い』
『ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー』- この曲の歌唱により1965年度の第7回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
『別離(わかれ)』
『ろくでなし』
『メランコリー』
『そして今は』
『一寸おたずねします』
『人生は過ぎゆく』
『家に帰るのがこわい』
『冬の蛍』
『ビギン・ザ・ビギン』
『哀れなジャン』
『じらさないで』 .
洒落にしましょう
サン・トワ・マミー
愛の讃歌
ラストダンスは私に
ミロール
雪が降る
恋ごころ
ラストダンスは私に
家へ帰るのが怖い
夜霧のしのび逢い
別離(わかれ)
ラ・ノビア
チャンスが欲しいの
メランコリー
想い出のソレンツァラ
幸福を売る男
夢の中に君がいる
ラスト・ダンスは私に