Ska+Beat+City | ja

世界中で最も広く知られ、成功したロックバンド。イギリスのリヴァプールで結成され、アメリカを制圧し、世界中を席巻してポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー(英国デビュー曲は「ラブ・ミィ・ドゥ」)。1970年解散。 外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE勲章が授与された。 世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティストとして、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。 その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。 なお、ジョージを除いて4人中3人がアイルランド系移民の子孫である(司馬遼太郎の愛蘭土紀行参照)。 《メンバー》 ・ジョン・レノン(John Lennon)(リズムギター) ・ポール・マッカートニー (Paul McCartney) (ベース) ・ジョージ・ハリスン (George Harrison)(リードギター) ・リンゴ・スター(Ringo Starr)(ドラムス) 《デビュー前のメンバー》 ・ピート・ベスト (Pete Best) ・スチュアート・サトクリフ (Stuart Sutcliffe) 日本公演 日本公演は、読売新聞社と中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。 (入場料金) A席:2100円、B席:1800円、C席:1500円 ※警備の都合上アリーナ席はなし ビートルズ来日に伴い、警備は相当厳重になり、警視庁は大規模な警備体制を取り約3万5千人の警備員と機動隊が出動した。また安保闘争を除けば警視庁創設以来の大規模な警備体制となった。 公演では当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、ビートルズ側の言い分(マイク・スタンドの不備等)によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた(番組の詳細はザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。当時開発されたばかりの2インチ高画質カラービデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオは海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。しかし、現在では版権等の問題があるため、2006年現在このビデオの再リリースは不可能といわれている。 ちなみに7月1日の映像はDVD『アンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見所として『アイ・フィール・ファイン』の冒頭でジョンがギターでフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8ミリ映像も収録されている。一部のコレクターなどにS氏が撮影した6月30日と7月1日(昼の部)のカラーの8ミリも存在し今のところ、存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。内部資料の一部であり、当然のように非公開映画であるため、どのような構成なのか、モノクロなのかカラーなのか、上映時間は何分なのか、またビートルズの姿やビートルズのステージの模様も収録されているのか、などといった具体的な内容は一切不明であるが、この映画の中に、上記3ステージ以外のステージの模様や、楽屋やホテルでのビートルズの姿が記録されている可能性はある。 タレントの志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音。また同日夜の部では、ジョンがサングラスをして公演をした珍しい日でもあった。当時はPA(拡声)システムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラム)しかできなかったらしい。 この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナ席には警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。RCサクセションの 仲井戸麗市は著書『だんだんわかった』で、高校生時代に見たこの公演の様子を書いており、リンゴの『アイ・フィール・ファイン』のバスドラムの踏み方が完璧で本物だった、と記している。 今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相や、元朝日新聞記者で政治評論家の細川隆元らが、「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた(特に細川は、テレビ番組などで差別用語まで使い罵倒を繰り返していた)。実際に、公演会場を後楽園球場かよみうりランドへ変更することも検討された。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「戦うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。 司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ(寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。ドリフターズの演奏は当時放映されておらず、日本テレビいつみても波瀾万丈に加藤茶が出演した際に始めて公開された(6月30日版)。6月30日・7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったためとされている。7月2日の演奏は、写真が残されているのみで公式な映像・音声は2006年現在一つも発見されていない。 しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年、1965年の公演に比べると、ライブとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライブ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことを考えると、始めからまともに演奏する気がなかったことが窺える。そして、ライヴでの再現が不可能・困難な曲を多く含んだアルバム『リボルバー』のレコーディングを来日前に終えているという事も考慮すると、ビートルズは最早ライブ活動に対する執着心を感じていなかったのではないかという事が考えられる。(初日の演奏で日本のファンが演奏を聴いてくれていると知ったメンバーが翌日のステージでは恥ずかしい演奏は見せられないと本気の演奏をしたという証言もある) 初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞は、「1曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』から始まり、『ヘルプ』、『プリーズ・プリーズ・ミー』とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した…」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズそのもの」よりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが窺える。 メンバーの投宿に際しては、警備上の理由からなかなか決まらず、唯一名乗りを挙げた「東京ヒルトン」(後のキャピトル東急ホテル。2006年11月30日に閉館)に落ち着いた。 なお、来日時に日本航空のダグラスDC-8機のタラップを降りてくる時に、4人のメンバー全員が「日本航空」のロゴの入った法被を着用していたが、これは、「宣伝のために自社のロゴの入った法被を4人に着用させろ」との日本航空の宣伝部の命を受けた客室乗務員が、「日本の伝統衣装を着用すると日本のファンが喜ぶ」といって着用させたものだった。 《ディスコグラフィー》 オリジナルアルバム 1963年 プリーズ・プリーズ・ミー (Please Please Me) 1963年 ウィズ・ザ・ビートルズ (With The Beatles) 1964年 ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ! (A Hard Day's Night) 1964年 ビートルズ・フォー・セール (Beatles For Sale) 1965年 4人はアイドル (Help!) 1965年 ラバー・ソウル (Rubber Soul ) 1966年 リボルバー (Revolver) 1967年 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band) 1968年 ザ・ビートルズvThe Beatles) 1969年 イエロー・サブマリン (Yellow Submarine) 1969年 アビイ・ロード (Abbey Road) 1970年 レット・イット・ビー (Let It...
Black Beat (블랙 비트) was a boy band from South Korea formed in 2000. Black Beat belonged to SM Entertainment. A few of their members have appeared elsewhere, but for the most part their public appearances (and subsequent popularity) have been limited. This can be attributed to a number of things: the waning popularity of poppy rap and the decreasing amount of SM Entertainment's PR power (which since 2004 has focused on a few core groups and singers). Their last appearance was the 2006 Winter SMTown. Their disbandment was confirmed in 2007 when lead vocalist, Jang Jin Young teamed up...
アウル・シティー (Owl City) とは、アメリカ人のミュージシャン「アダム・ヤング」 によるソロプロジェクトの名称である。 シンセポップを基調としたエレクトロニカ色の強い楽曲スタイルで、ジャンルは「ドリーミー・エレクトロ・ポップ」と評される。また音楽性の近さからか、よくザ・ポスタル・サーヴィスと比較される事が多い。 元々はマイスペースを中心に2007年より活動していたインディーミュージシャンだったがユニバーサルミュージックに引き抜かれ、2009年7月28日にメジャー1枚目のアルバム『Ocean Eyes』を発表。このアルバムではゲストボーカルとしてリライアントKのマット・ティーセンも参加している。 『Ocean Eyes』はアメリカのビルボードチャートを上昇し続け11月7日付けのBillboard 200では8位まで上昇しTop10に入った。さらに、このアルバムに収録された楽曲「Fireflies」もダウンロード市場を中心に好評を博し、11月7日付けのBillboard Hot 100において遂に首位を獲得した[1]。その結果、アルバムトータルセールスも100万枚を超え、全米でプラチナムに認定されている。 2009年11月にはロックバンド・メイの日本公演のオープニングアクトも務めている。 .
1990年、平成2年生まれ、神戸市在住のトラックメイカー / DJ。インターネットで100曲以上の膨大な量の楽曲を公開し続けるかたわら、YUKI、FPM、佐々木希、ももいろクローバー、Flo Rida など、様々なアーティストのリミックスも手がけており、その手腕はジャンルや世代、メジャーインディー問わず高い評価を得ている。他にwebCMなどのクライアントワークも多数。 2011年からは清純派ヒップホップアイドル lyrical school に継続的に楽曲プロデュースで参加。作詞から作曲まで一貫して手がけるその手腕には定評があり、2013年には9nineなどの他アイドルの楽曲プロデュースも行う。 また、現在までに自身の名義を含む6枚のアナログ盤をリリースするなど、インターネットだけに絞られない活動を行っており、盟友オノマトペ大臣と2011年末にリリースした「水星EP」は初回プレスが発売直後に即完売。2度の追加プレスを重ねアナログ盤としては異例のヒットに。後の強い要望を受けてリリースされたデジタルバージョンはiTunes 総合チャート1位を獲得。iTunes Best of 2012にインディペンデントアーティストであるにもかかわらず選出され、翌2013年のニューアーティストにも選ばれる。2013年春の発売した「lost decade」もiTunesで総合チャート1位を獲得した。世界のインターネットに散らばる最新のクラブミュージックからJ-POPまで、凝り固まらない平成生まれのバランス感覚を持った新進気鋭の若手トラックメイカーである。 .
浅井健一(あさい けんいち〈通称:ベンジー〉、愛知県出身、1964年12月29日 - )ボーカル、ギター 照井利幸(てるい としゆき、愛知県出身、1964年2月28日 - )ベース 中村達也(なかむら たつや、富山県出身、1965年1月4日 - )ドラム BLANKEY JET CITY(ブランキー・ジェット・シティ)は、日本のロックバンド。東京にて1987年2月結成。略称はBJC。ファンや周囲からは「ブランキー」と呼ばれることが多い。 Blankey Jet CityはHMVによるTop 100 Japanese pops ArtistsのNo.73に選ばれている。 ●1987年1月にブランキー・ジェット・シティを結成。 ●1990年8月、「イカ天」にて第6代グランドイカ天キングを獲得したのがデビューのきっかけとなる。タテノリのパンクバンドが主流のバンドブームの中にあって、硬派でストイックなアメリカの不良のような佇まいや、垢抜けているがドラスティックなサウンド、特異な叙情性が注目を集め、審査員全員一致で選出された。 デビュー前に山本耀司のパリコレのモデルやウォークマンのCM出演など新人としては破格の扱いを受ける。しかし、満を持して1991年4月12日に発売されたファーストアルバム『RED GUITAR AND THE TRUTH』は評論家受けこそ高かったが、売上は10万枚にも達しなかった。 ●翌1992年、土屋昌巳がBJCに熱烈なラブコールを送り、プロデュースを行い、1992年1月22日に2枚目のアルバム『BANG!』を発売する。同アルバムはミュージックマガジン誌が選ぶ日本のロックのアルバムの中で矢野顕子や佐野元春を抑えて、一位を獲得する。 彼らの所属していた東芝EMIではBJCを有名にするべく、過密なレコーディングを強いていた。結果、3rd『C.B.Jim』のレコーディング時には浅井が詞を書けなくなるなどの事態も生じる事となる。 ミニアルバムを挿み、4th『幸せの鐘が鳴り響き、僕はただ悲しいふりをする』をリリース。 5th『SKUNK』をリリースし、メンバーそれぞれが各ソロプロジェクトを始動する。 浅井はSHERBETとしてアルバム『SEKILALA』を、照井はJOE BROWNとして『ido-est』をリリース また、中村はLOVE SHOP LOSALIOSとして活動する。 ●1997年には初のセルフプロデュースとなるアルバム『Love Flash Fever』をポリドールよりリリースする。 1998年の「赤いタンバリン」以降はタイアップ曲をたて続けに発売し、セールスが向上。同曲を含むアルバム『ロメオの心臓』は30万枚以上のセールスを記録している。 ●1999年にはそれぞれソロプロジェクトを行い、 浅井はSHERBETSのアルバム『SIBERIA』 照井はJIM SPIDERのアルバム『WITH A GHOST』 中村はLOSALIOSのアルバム『世界地図は血の跡』 をリリース、また中村は東京スカパラダイスオーケストラのサポートドラムを勤めた。 2000年5月10日、アルバム『HERLEM JETS』を発表、新聞広告上において「最高のアルバムが出来たので俺達は解散します」と発表。原因はメンバーの不仲説や、音楽性の違いなどとも噂されていたが、現在でも照井と中村は浅井健一の曲にゲストとして参加したり3人で飲みに行ったりすることなどがあり、不仲での解散ではないと思われる。 7月8日・9日に横浜アリーナにてバンドの最終公演「LAST DANCE」を行ったが、同年7月28日のフジ・ロック・フェスティバルの初日グリーンステージのトリを務め、そのステージが真のラストステージとなった。 ブランキー・ジェット・シティというバンド名もボーカルの浅井健一曰く、不良たちが集まる架空の都市、ブランキー市長の都市(ジェットシティ)ということであり、デビュー後発行した単行本もそのような架空の設定要素や叙情性が色濃いものであった。 http://bjc.wilddisk.com .