朱里エイコ | ja

8    0

朱里 エイコ(しゅり- 、本名:田辺栄子(たなべ えいこ)、1948年3月19日 - 2004年7月31日)は、日本の歌手。 海外を中心に活躍した。

出生名 田辺栄子
学歴 目白学園高等部
出身地 日本・東京都
死没 2004年7月31日(満56歳没)
日本・東京都足立区
ジャンル ポップス ジャズ ソウル歌謡曲
活動期間 1962年 - 2004年
レーベル 日本ビクター1962年 - 1964年
キングレコード1967年 - 1969年
ワーナー・パイオニア1971年 - 1979年
RCAレコード1981年 -
事務所 エルフィンスケジュール(晩年)
共同作業者 タワー・オブ・パワー
ポール・アンカ
ドン・コスタ

1948年3月19日、舞踏家兼振付師で『エド・サリヴァン・ショウ』に出演歴のある朱里みさをとオペラ歌手の父の娘として東京に生まれる。
家庭内暴力のため、両親は間もなく離婚、そして父はエイコが5歳の時に交通事故のため亡くなっている。

1964年11月、日本人の海外渡航自由化の年に16歳で単身渡米。ボブ・アルシルバーに師事。
アメリカ、ハリウッドで当時有名だったプロデューサー、トーマス・ポールが来日した際、大勢の中からオーディションに合格し、ダウンタウンのエルコース・ホテルで初舞台を踏む。
この年から2年間の契約で、ラスベガスを中心に各地のショービジネスにデビュー。リノ、レイクタホー、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどの一流ホテル・クラブで活躍した。
まだ無名だった彼女は常にアメリカのランキング上位40曲を歌えなければならなかったという。ラスベガスではサラ・ヴォーンと一緒に舞台を踏んだ。

1966年9月に帰国。日本で初めてのリサイタルを、日生劇場で開く。

1969年、今までレコードを出したり、ワンマンショーを開いたりしていたが、さっぱり人気が出なかったため、2度目の単身渡米。
当時、彼女のショーを観た専門家たちに言わせると、「彼女の持ち味が生かされるほど、当時の日本は進んでいなかった」とのことだった。
以前とは違う自分を試したかったエイコは、グループに所属せず単独のエンターテイナーとして勝負することを決心。
ホテルとの契約、バンドの編成、バンドメンバーに給料を払ったりと、すべてを一人でこなさなければならなかった。
ラスベガスのリヴィエラ・ホテルなどでショービズに身を投じる。

1970年1月、ラスベガスでのショーが大成功をおさめる。
続いて2月には、Eiko Shuri and her bandとして「サハラ・ホテル」で2か月のロングラン。さらにネバダ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイとワンマンショーを行う。

1971年2月には一時帰国し、ワーナー・パイオニアと契約する。

アメリカで十分にエンターテイナーとして通用するようになり、再び日本で活動するため1972年10月、最後のショーを開いて帰国。
またこの年1月に発売した「北国行きで」も大ヒットし、デビュー8年目にしてようやく日本でも人気がでる。
同年12月31日、『北国行きで』で第23回NHK紅白歌合戦に初出場する。

1975年、マネジャーの渥美隆郎と結婚する。当時日本では同じ職場にいる人と結婚することは、「職場に女性を連れ込んだ」という風に見られていたため、週刊誌などでは批判の対象となってしまう。
しかしアメリカで長い間活動していた彼女にとって、気兼ねなく話をしたり、信頼できるパートナーと共に仕事をするというアメリカスタイルは、ごく普通のことだった。

アメリカと日本での活躍
アメリカ仕込みの歌とダンスはもちろん、三味線やピアノを演奏しながら歌ったり、時には得意の玉乗りを生かしてステージを構成したりと、彼女の行動力と話題性は尽きることが無かった。

1975年3月28日、再びアメリカへ行く。
4月1日からは、半年の全米ワンマンツアー開始する。
ニューオリンズ、プエルトリコ、ラスベガスなど各地で公演を行った。
この際に、アメリカでザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソンなどいくつかの番組出演し、初日にはショーの模様がABCにて放送された。
同じ月に発売された「AH SO!」では、自身が三味線を演奏しながら歌い、「AH SO!」の掛け声とともに、ショーでは大変な熱気に包まれ、好評だった。

6月には、彼女のショーを見たタワー・オブ・パワー側がジョイントレコーディングを企画する。
ロサンゼルスのワーナースタジオで彼らの作品を中心に数回に亙る慎重な打ち合わせが行われた結果、『愛のめざめ I'm Not A Little Girl Anymore』と、『絶体絶命 Buring My Bridges Behind Me』の2曲に決定。10月から約1箇月半を費やしてレコーディングされた。日本とアメリカでそれぞれリリース。

さらに1976年、フラミンゴ・ラスベガスでの彼女のショーを見たアメリカ人、レイカルド・デュオ氏からカーネギー・ホール出演を持ちかけられる。
6月19日、カーネギーホール(日本人女性歌手として初出演)でのリサイタル。大ホールでのこの公演は超満員となり、大成功を収める。

10月にカーネギー・ホールに出演して以来、一緒に活動していたHervey Truittらバンドメンバーと共に帰国し、日本公演を各地で行った。
この公演以来、「海外に通用する日本人アーティスト」として彼女を取り上げた、キョードー東京の企画によって公演を行うようになる。

そして12月、再びアメリカへ向かう。

1977年6月23日より東京から全国縦断リサイタル。
6月、彼女は来日していたポール・アンカに直接アタック。ポールはLPに収録されていたマイ・ウェイを聴いて大絶賛し、4曲歌をプレゼントした。
ちなみにその中の1曲が、シングル発売された「ジョーのダイヤモンド」である。
1978年に行われた第7回東京音楽祭、国内大会にはこの歌で出場しゴールデン・スター賞、作曲賞を受賞した。

同年9月には再び渡米し、バーブラ・ストライサンド、フランク・シナトラ、ダイアナ・ロスら大物歌手を手掛け、ヒット曲を持つUSAトッププロデューサー、Don Costaのプロデュースによるアルバムの打ち合わせを行い、10月よりレコーディングが行われた。
このアルバム制作のために、ポールはオリジナル曲15曲をプレゼントした。
12月に「NICE TO BE SINGING」のタイトルでリリース。

またこのアルバムに先駆けて10月にはトヨタ新チェイサーのCMソング「サムライ・ニッポン」を発売
。 ちなみにこのアルバムには「SAMURAI NIPPON」が収録されている。

11月にはレコーディングを完了し、この新曲のプロモートのためにハリウッドで行ったオーディションで選び抜いた4名のダンサーと共に帰国。
テレビ、ステージで活躍した。 インパクトのある題名、CMと何かと話題を集めた作品になった。

1979年ソウル国際音楽祭に日本代表で出場。
前年に出したLPに収録されている「I GET OFF ON YOU 」などを歌った。ちなみにこの模様を収録したLPが韓国のみで発売された。

5月には「窓あかり」を発売。バックにはレニー・ホワイトが参加した。

また久しぶりに日本を拠点に活動し、1年間をかけ徹底的に全国くまなくコンサートを各地で開き、大盛況。

12月10日、初のベストアルバム発売(アメリカでも)し、ワーナーとの契約終了。
ちなみにこの月に東京厚生年金会館で行われたリサイタルは録音されたが、LP,CD化されておらず、幻の音源となっている。

1980年はレコード会社が安定しないままほとんどアメリカで活動していたため、日本公演は行われたが新曲発売は無かった。

1981年RCAレコードへ移籍。1月8日より移籍後初のリサイタルを東京メルパルクホールから行う。

葛藤と苦悩の日々
1972年に「北国行きで」でヒットを出したころから、実力重視ではなく、ヒット曲重視の日本の芸能界に疑問を抱き始める。
ヒットがなければテレビに出られない(実力派を重視した番組は今に比べまだまだ少なかった)、なぜ自分は日本人に受けいれてもらえないのだろうか、ということに葛藤し続けた。

特にこの頃日本では、アイドル歌手が全盛の時代であり、周りから実力派といわれるようになってからも、人一倍努力を怠ることなく様々な経験を積んできただけあって、このギャップがさらに彼女を苦しめることになる。
ヒット曲がなかなか出ず、世間から忘れられてしまうのではないか、という焦りも付きまとった。

鬱病状態に陥りながらも、なんとかステージをこなしていたが、1983年6月に名古屋で3度目の失踪事件を起こしてしまう。
この後しばらく入院したが、彼女の復活を望む声は多く、また徐々に活動を始める。

しかし悲劇は続いてしまう。赤坂コルドンブルーに出演して1週間たったある日、開演時間を過ぎても会場に現れない彼女を心配し、関係者が品川区の自宅を訪ねた。
すると部屋でパニック状態に陥り、苦しみ悶えている姿で発見される。彼女が精神科で出されていた薬と、直前に飲んだ栄養ドリンクが異常な症状を出すという、いわゆる薬の飲み合わせによるものだった。
結局この日の公演は中止になり、この事件で彼女は信用を失ってしまう。

さらにはストレスなどいろいろなことが重なり、肝臓病を患ってしまう。生きるか死ぬかという状態が続き、5年という長期にわたって入院生活が続いた。

復活へ
1987年ころから、病気の療養などもあり、以前のように活発な活動ではないが、マイペースに活動を始める。
また久しぶりに、シングルを発売したり、ライブやディナーショー、テレビ出演などこなしていった。

全身全霊で歌うそのエンターテイナー振りは、相変わらずで観客を魅了し続けたが2004年7月31日、虚血性心不全のため自宅にて死去。享年57(満56歳没)。

「私にとってステージはマイライフです」といつも周囲に言っていた。 .

類似のアーティスト