Slayer | ja

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スレイヤー(SLAYER)は1981年に結成されたアメリカ合衆国のヘヴィメタルバンドである。
メタリカ、メガデス、アンスラックスらのバンドと共に「Big Four(スラッシュメタル四天王)」の1つとされる。1986年にリリースされたアルバム『Reign in Blood - レイン・イン・ブラッド -』は英国ケラング!誌に"the heaviest album of all time by Kerrang!"と評された。
 
歌詞やアルバムのジャケットに用いられる、死、自殺、精神異常、死体、サタニズム、連続殺人犯、戦争などといったテーマがしばしばアルバムの発売禁止及び延期、訴訟等をもたらし、宗教団体や一般大衆からの強い非難を受けることがある。
 
1983年のデビュー時から2枚のライブアルバム、一つのボックスセット、3枚のDVD、一つのVHS、2枚のEP、10枚のフルアルバムをリリースし、4枚のゴールドディスクを獲得している。グラミー賞には3回ノミネートし、2007年には『Eyes of the Insane』が、2008年には『Final Six』が最優秀メタル・パフォーマンスに選ばれた。『オズフェスト』や『UNHOLY ALLIANCE TOUR』などの世界ツアーではヘッドライナーを務める。 2009年、次のアルバムのリリースを以って引退するという趣旨のトム・アラヤの発言が報道されたが、後に本人が否定。
 
 
2011年、ジェフ・ハンネマンが右腕を毒蜘蛛に噛まれ、壊死性筋膜炎を発症したため、バンドを離脱。ツアーにはエクソダスで活動するゲイリー・ホルトがサポートで参加することとなった。しかし、ジェフは復帰することなく、2013年5月2日に肝不全により死去した[3]。



○歴史
1981年、バンドのオーディション中に出会ったKerry KingとJeff Hannemanが、以前にKerryが「Quits」というバンド(その前は「Tradewings」という名前であった)で一緒にプレイしていたTom Arayaとピザ配達のバイトを通じてKerryと知り合ったDave Lombardoを誘い、この4人によって結成される。最初は北カリフォルニアのクラブやパーティでアイアン・メイデンやジューダス・プリースト、スコーピオンズ、ディープ・パープルなどのカヴァーを演奏していた。当初バンド名は「Dragonslayer」で、1981年公開の同名映画のタイトルからそのまま取ってつけられたという噂があったが、Kerryはこれを否定している。

ロサンゼルスにある「Woodstock Club」にてヘビーメタルバンド「Bitch」の前座としてライブで演奏(全8曲、その内6曲はカヴァー)した際、アイアン・メイデンの「Phantom of the Opera」をプレイする姿を見たアメリカの名門メタルレーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」の創設者「ブライアン・スレイゲル(Brian Slagel)」に見出される。その後バックステージで両者は出会い、BrianはSlayerに作曲を要請しバンドはそれを承諾した。

1983年、そのメタル・ブレイド・レコーズによるコンピレーションアルバムの第三弾『メタル・マサカー3 - METAL MASSACRE 3 - 』(詳細は→メタル・ブレイド・レコーズ)に曲「Aggressive Perfector - アグレッシブ・パーフェクター」を提供、このレーベルと契約した。

同年12月にデビュー・アルバム『ショウ・ノー・マーシー - SHOW NO MERCY - 』を発表。バンドには資金が無かった為、自分達で製作費用を出した(Tomは自分の稼ぎを充て、Kerryは父から金を借りた)。おかげで何とかメンバーはこの年の11月にスタジオ入りすることができた。リリースを急ぎ、収録曲が完成してから三週間で店に置かれた。

1984年には、アルバムのプロモーションを兼ねてライブツアーを行った。ツアーと言っても国内のクラブを回るもので、Tomの所有するカマロでU-ホールから借りたトレーラーを引きながらの移動であった。このライブのおかげでバンドは知名度を上げ、アルバムはアメリカだけでも2万枚、国外でも2万枚以上の売り上げを記録する。

同年10月、3曲入りEP『ホーンティング・ザ・チャペル - HAUNTING THE CHAPEL - 』を発表。アルバムの幕開けとなる「ケミカル・ウォーフェアー - Chemical Warfare - 」はバンドの定番の曲となった。アルバムリリース後、Slayerはバンド「UFO」の前座として、ライブ「Heavy Sounds Festival」においてヨーロッパデビューを果たす。アメリカに戻ってからは、ツアー「Haunting the West」を開始。

このツアーの後、Kerryは「デイヴ・ムステイン(Dave Mustain)」の新しいバンド「メガデス(MEGADETH)」に加入する為に一時バンドを離れている。Jeffはこれに関して「新しいギタリストを探そうか考えていた」と語っている。DaveはKerryにメンバーになるよう要求したが、結局彼はSlayerに戻った。この時「(MEGADETHは)俺の時間を大いに取った」と発言しており、両者の間には亀裂が出来、後に2つのバンドの長き争いへと発展する。その後バンドは「ヴェノム」や「エクソダス」と共に「Combat Tour」を開始、ライブアルバム『Live Undead』をリリース。

1985年、初のライブ映像となる『Combat Tour:The Ultimate Revenje』をリリース。ヴェノムらと共にニューヨークの「Studio 54」にて出演したライブが取り上げられた。またこの年にはアルバム『SHOW NO MERCY』の売り上げが4万枚を突破、バンドは2枚目のスタジオアルバムを製作することが出来ることになる。メタル・ブレイドは製作費用をバンドに与え、今回の収録にはプロデューサーの「Ron fair」を雇うことができた。

同年9月、2ndアルバム『ヘル・アウェイツ - HELL AWAITS - 』を発表。
アルバム『Hell Awaits』が成功したあと、バンドはメジャー・レーベルデフ・ジャムからオファーを受ける。ベテランのプロデューサー、多額の制作費を約束し、移籍。良いプロダクションを向かえ、より速く・短い曲を作るよう急激なイメージチェンジをさせられるも、結局複雑な編曲に演奏時間の長い曲を作るに至った。

1986年、『レイン・イン・ブラッド - REIGN IN BLOOD - 』を制作するが、「歌詞が過激過ぎる(ナチスの虐殺者ヨゼフ・メンゲレについて歌った『エンジェル・オブ・デス』が特に問題視された模様)」という理由から、コロムビア・レコードがアメリカ国内の配給を拒否。その後、当時ワーナーグループ傘下だったゲフィン・レコードからの配給が決定、無事発売(しかし議論の結果このレコード会社のリリース表にはこのアルバムの名は記載されていない)され、ラジオでのエアプレイが無かったにも関わらずビルボード誌のアルバム・チャートで最高50位台を記録する。なお、イギリスでは、WEAが発売を拒否したため、ロンドンレコードから発売された。

同年10月、Slayerはワールドツアー「Reign in Pain」を「オーバーキル」や「Malice」と共に開始。またバンド「W.A.S.P.」のツアーにおいてオープニングを務めることも決定するが、その後1ヵ月も経たないうちにドラマーのDaveが「家庭生活を優先したい」とし脱退。ツアーを続ける為に元「ウィップラッシュ」の「Tony Scaglione」が参加するが、翌年には妻の説得によりDaveが復帰。

1987年、コロムビア・レコードの創設者、「Rick Rubin(リック・ルービン)」の強い主張によって、映画「Less Than Zero」のサウンドトラックの為にバンド「アイアン・バタフライ」の代表曲『In-A-Gadda-Da-Vida』のカヴァーを収録。バンドはこれを快く思わなかったが、Jeffは「可愛そうなSlayerの演出」と考えており、Kerryは「糞の塊」と言っている。ちなみに、この歌はラジオで流されたSlayerの最初の曲の1つである。

1988年、『サウス・オブ・ヘヴン - SOUTH OF HEAVEN - 』を発表。製作する際、前作の『Reign in Blood』から一転、あえて曲のテンポを下げ、メロディアスな歌唱を取り入れることを決める。これに関してJeffは「『Reign in Blood』を越える事が出来ないのは分かっていた。だから曲のスピードを落としたんだ。リリースしたアルバムが皆『Reign~』と比べられることが分かっていたからね。奇妙なことだった。この前にも後にも、こんなことは無いよ。」と語っている。またこのことはファンや評論家から様々な反響を呼んだが、アルバムは当時最も商業的に成功し、ビルボードチャートで初登場57位(200位中)を記録、また彼等の2枚目のゴールドディスク授賞作品となった。アルバムに対する評価は色々で、「Allmusic」は「混沌としており力強い」と評価する一方、雑誌「ローリング・ストーン」の「Kim Nelly」は「純粋で攻撃的な悪魔の鼻水」と呼んでいる。Kerryは「最も活気の無いアルバムだ」と評しているがTomは「後に人へと成長する遅咲きの花だ」と言っている。

同年8月12日、ロサンゼルスのハリウッド・パラディウムでの公演と8月31日・ニューヨークのフェルト・フォーラムでの公演において、プロモーターがチケットを売り過ぎた事が原因で観客の暴動が発生。同会場での演奏が禁止される。

1990年に『シーズンズ・イン・ジ・アビス - SEASONS IN THE ABYSS - 』を発表。『クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ』ツアー(第一弾はスレイヤー、メガデス、テスタメント、スイサイダル・テンデンシーズというラインナップでの1990年のヨーロッパツアー、第二弾はスレイヤー、メガデス、アンスラックス、アリス・イン・チェインズというラインナップでの1991年全米ツアー)を実施。ビルボード誌の総合チャートで40位内にランクイン。

1991年、活動開始10年を記念したライヴ・アルバム『ディケイド・オブ・アグレッション - DECADE OF AGGRESSION - 』を発表。

1992年、デイヴ・ロンバードが脱退。新ドラマーとして元「フォビドゥン」の「ポール・ボスタフ」が加入。

1994年、『ディヴァイン・インターヴェンション - DIVINE INTERVENTION - 』を発表。

1995年、ビデオ『ライブ・イントゥルージョン - LIVE INTRUSION - 』発表。

1996年、パンク/ハードコアカバーアルバム『アンディスピューテッド・アティテュード - UNDISPUTED ATTITUDE - 』を発表。ポールが脱退し、新ドラマーとして元「テスタメント」の「ジョン・デッティ」が加入するが、すぐにポールが復帰。

1998年、『悪魔の鎮魂歌(レクイエム) - DIABOLUS IN MUSICA - 』を発表。

2001年、『ゴッド・ヘイツ・アス・オール - GOD HATES US ALL - 』を発表。8月には日本のヘヴィロック・フェスティバル「Beast Feast 2001」にパンテラとのダブル・ヘッドライナーとして出演。

2002年、12月に再びヘッドライナーとして「Beast Feast 2002」に出演。

2003年、DVD『ウォー・アット・ザ・ウォーフィールド - WAR AT THE WARFIELD - 』 、BOX-SET『サウンドトラック・トゥ・ジ・アポカリプス - SOUNDTRACK TO THE APOCALYPSE - 』発表。

2004年、DVD『スティル・レイニング - STILL REIGNING - 』発表。

2006年、オリジナル・ドラマーのデイヴが復帰。8月、約5年ぶりのアルバム、『クライスト・イリュージョン - CHRIST ILLUSION - 』をリリース。ビルボード初登場5位を記録した。10月には日本のヘヴィメタル・フェスティバル「LOUD PARK 06」への出演、単独公演を行った。

2007年、『クライスト・イリュージョン - CHRIST ILLUSION - 』のリイシュー盤、DVD『アンホーリー・アライアンス・ツアー:邪悪伝道同盟 - THE UNHOLY ALLIANCE - 』を発表。


現在のメンバー

トム・アラヤ(Tom Araya,Tomás Enrique Araya、Bass、Vocal)1961年6月6日生まれ

チリのビニャ・デル・マール出身、チリ系のアメリカ人である。1966年にアメリカに移住した。
ベースは8歳のときから始め、ギターを弾く兄とビートルズやローリング・ストーンズを弾いていたという。
少なくとも両腕にタトゥーを彫っており、右上腕部には「荒矢(=Araya)」の漢字がある。
実は80年代の初め頃は呼吸療法士として働いており、SLAYERのデビューアルバム「Show No Mercy」の制作費にそこでの彼の収入を充てている。療法士となったのは姉の薦めであり、父に仕事を探すか医療を学ぶ為に就学するかの選択を迫られ、結局2年間就学した。そこで彼は空気の混合比率や採血法、気管挿管を学んだという。
1984年のSLAYERのヨーロッパツアーの際には、病院に休暇を要請するも拒否された。朝の5時に電話がかかってきて「誰も来ておらず人手不足なので、病院に来てもらう必要がある」と起こされたという。結局一ヶ月病院に行かなかったところ、解雇されてしまった。
作詞を務めることが多いが、歌詞の内容は連続殺人に関するものが多い。初めて作詞を務めた楽曲は「At Dawn They Sleep」である。
近年は過剰なヘッドバンギングにより首が限界に達したため脱退、解散の可能性も危ぶまれたが、後に本人は全面的に否定している。
彼曰く「俺たちのファン」である妻との間に一男一女の子供が居り、来日時にはいつもお土産を買って行くという家族思いの一面を持っている。

ジェフ・ハンネマン(Jeff Hanneman,Jeffry John Hanneman、Lead Guitar)1964年1月31日生まれ

カリフォルニア州・オークランドに生まれ、ロングビーチで育つ。家族には多くの退役軍人がおり、父や兄弟が第二次大戦に参加していた為、家族の会話では戦争のことが共通の話題であった。戦争映画をテレビでよく見、戦車や戦闘機のプラモデルを兄弟と一緒に作っていたという。これらの事は家庭での教育にも影響しており、彼も戦争に魅了されている。
SLAYERの曲はほとんど彼によって書かれている。『Angel of Death』や『Raining Blood』、『War Encemble』、『Seasons in the Abyss』などの代表曲も多く手がけた。『Angel of Death』においては問題視された歌詞も書いており、前述の彼の生活環境からの影響が見られる。
リフは自宅でオーバーダビングやドラムマシンを用いて作っており、他のバンドのメンバーから意見を聞いたりもする。
1997年、1980年代の初めにも会ったことのある女性「キャサリン(Kathryn)」と結婚。子供はおらず、共にロサンゼルスで生活している。妻はバンドのツアー中はずっと家にいるが、20年の間に二度参加したことがある。

2011年より壊死性筋膜炎のため療養していたが、2013年5月2日 肝不全により死去。



ケリー・キング(Kerry King、Kerry Ray King、Lead Guitar)1964年6月3日生まれ

カリフォルニア州・ロサンゼルスに生まれるが、その後カナダのネルソン高校(Nelson High School)に通うためにオンタリオ州・バーリントンに移住する。卒業式では総代も務めたと言われている。
バツ一で、二度結婚している。現在の妻・アイシャ(Aisha King)の前に結婚した女性との間に「Shyanne Kymberlee King」という名の子供がいる。
昔は一般的なメタルアーティストのようにロングヘアーであったが、禿げ始めたのでスキンヘッドにした。その後頭部を含め上半身全体にわたってタトゥーが彫られており、長い髭、大量の五寸釘を打ったリストバンドと共に彼のシンボルとなっている。ちなみに彼が所持しているB.C.Richギターの中には、右腕のトライバル柄を彫ったタトゥー師に作ってもらったデザインのものがある。リストバンドについては、その重さ故に演奏に支障を来たしていたばかりか、腕の腱や靭帯にも影響を及ぼすようになった為に現在は着用するのを止めている。また近年は体格が大きくなっていることもあって、デビュー当時とのルックスの差が大きい。
激しい容姿とは裏腹に、ロックを取り扱った日本のバラエティー番組「ROCK FUJIYAMA」に出演。レギュラー出演者であったマーティ・フリードマンとの紙相撲対決に参加したり、トーク中にジョークを飛ばすなど明るく、友好的な態度を見せた。
無神論者であり、宗教に対して「(人生における何か物事を)自らの力で克服・達成することの出来ない、弱い人間の為の松葉杖だ」という見解を持っている。Jeffと共に作曲に参加することがある一方多くの作詞も手がけており、歌詞の内容は悪魔主義に関するものが多い。しかし、彼は神も悪魔も信じていないと主張している。
元パンテラ、ダメージプランのギタリスト、ダイムバッグ・ダレルとドラマーのヴィニー・ポールと大変親しい関係にあり、パンテラのライブにゲスト参加して『Fucking Hostile』等の曲を演奏した他、レコーディングにもゲスト参加した事がある。また、2008年度のオズフェストのヘルイェーの公演にゲスト参加した。
極端な偏食で、野菜が一切食べられないという。ハンバーガーの中のオニオンも片っ端から取り去って食べるという偏食振りで、「野菜を食べろと言うならポテトを食べるよ。あれだって野菜だろ?」とインタビューで語っていた事がある程である。

デイヴ・ロンバード(Dave Lombardo、Drums)1965年2月16日生まれ(1984年 - 1986年、1986年 - 1992年、2006年 - )

キューバ・ハバナ生まれ、キューバ系アメリカ人である。わずか2歳のとき、アメリカ・カリフォルニア州に移住する。
その激しいヘビーメタルのドラミングから、主に海外では「the godfather of double bass」と呼ばれ、現在でもデスメタルを含む多くのヘビーメタルドラマーに影響を与えた。
8歳のとき、学校の授業でサンタナのレコードと共にボンゴに出会い、これが後の彼の音楽に対する興味に繋がる。その後学校のバンドでマーチングドラムを担当するが、結局彼の趣味には合わなかった。10歳のときには、音楽に強く興味を持つ彼を見た父に350ドルのパール製ドラムを買ってもらう。
新しい趣味を見つけた彼は両親に頼みドラムのレッスン教室に通うが、そこで行われる授業は非常に簡単なプレイの繰り返ししか行われないような内容であったため、一週間で辞めてしまう。その後、パーティーでDJをすることのある友達の影響でディスコミュージックに触れるが、Daveが朝の4時頃に帰宅するような日が何日もあったので、両親からは「軍事学校に行かせる」と脅されたという。
1981年のときには、両親のアドバイスでピザの配達業を務めていた。その稼ぎと父から借りた金で1100ドルのTAMA製ドラムを購入。そんな中、家の5区先に「Kerry King」という名のギタリストが住んでいることを知り、彼に会いセッションを頼んだ。Kerryは承諾し、その夜は自身のギターコレクションを見せたという。
家庭の優先を理由に1986年に一時脱退するが、すぐに復帰する。1992年の再脱退後は「グリップ・インク」を結成し、1999年頃にはテスタメントに一時的に参加。2001年には脱退したポール・ボスタフの代役としてツアー・サポートとして参加していたが、2006年に正式メンバーとして復帰した。1998年からは元フェイス・ノー・モアのマイク・パットンやメルヴィンスのバズ・オズボーンらとのプロジェクトの「ファントマス」でも活動していて、現在も継続して活動している(近年はスレイヤーとしての活動が多忙な為、テリー・ボジオが代役を務める事が多い)。


元メンバー

ポール・ボスタフ(Paul Bostaph、1964年3月4日 - )

ドラムス担当。(1992年 - 1996年、1997年 - 2001年)
元フォビドゥンのドラマー。1992年に脱退したデイブ・ロンバードの後任として加入。1996年に一時脱退するが、すぐに復帰する。肘の故障を理由に2001年に正式に脱退し、その後システマティックに加入。正式脱退時にはスレイヤーの他のメンバーとの確執があったが、後に互いに理解し合えたという。2003年にはテスタメントに、2005年にはエクソダスに一時的に参加。 2007年よりテスタメントに正式に加入した。1996年の一時脱退時には「スレイヤーとは違う音楽性に挑戦したい」ということで、「The Theory Of a Seaweed」なるプログレッシブロック色の強いプロジェクトに参加するが、結局自分のやりたい音楽ではなかったことから、再びスレイヤーに戻っている。

ジョン・デッティ(Jon Dette)

ドラムス担当。(1996年 - 1997年)
元テスタメントのメンバー。1996年に脱退したポール・ボスタフの代わりにより加入する。1997年にポール・ボスタフが復帰すると再びテスタメントに戻った。

トニー・スカグリオン(Tony Scaglione)

ドラムス担当。(1986年)
元ウィップラッシュのメンバー。1986年にデイブ・ロンバードが一時脱退した際にサポート・ドラマーとして参加。

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