Sean Lennon | ja

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ショーン・タロー・オノ・レノン(Sean Taro Ono Lennon、日本名:小野 太郎、1975年10月9日 - )は、アメリカ・ニューヨーク出身の、音楽家・ミュージシャン。父は元ビートルズのジョン・レノン、母は前衛芸術家のオノ・ヨーコ。チボ・マットのサポート・メンバーとして1990年代後半に活動し、2006年までにソロ・アルバムを3枚、ミニ・アルバムを1枚発売している。

ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻の結婚6年目にして初めて誕生した息子。誕生日は父親と同じ10月9日である。安田善次郎の玄孫(やしゃご)にあたる。コロンビア大学を1年半で中退。

名付け親は、別居したジョンとヨーコの縒りを戻すきっかけを作ってくれたエルトン・ジョンで、ジョン・レノンの民族的ルーツであるアイルランドでの「ジョン」に相当する最もポピュラーな男子名ということで、「ショーン」を提案したという。ミドルネームの「タロー」はジョンから「なにか日本語の名前を付けてくれ」と頼まれたヨーコにより、「ジョン」に相当する日本語のポピュラーな男子名が「太郎」だということで名付けられた。

ショーンが生まれて間もない頃、ジョンは絶え間の無いレコード制作に辟易していたようで、その後所属レコード会社との契約が切れると何処のレーベルとも契約を交わすことなく音楽活動を停止している。

その後ジョンは主夫(ハウス・ハズバンド)となり、幼いショーンを育てることに没頭したと言われているが、実際のところどのような生活を送っていたかについては、未だに明らかにされていないことも多く、この時期については謎も残っている。

1977年以降は一家で、日本の軽井沢にある小野家の別荘や、定宿の万平ホテルに長期間滞在し、主に旧軽井沢や離山房(喫茶店)でショーンを連れて歩くジョンの姿は現地で多く目撃されている。

1980年12月8日(日本時間9日)、ジョンが殺害される。この事件以降の数年間について、ヨーコは自らのアルバムのライナーノーツの中で「1981年から1983年にかけての私とショーンは、まるで雪原の中に二人して立っているような思いだった」と記している。

また、母(オノ・ヨーコ)から父(ジョン・レノン)が殺された事を聞かされるとその場では気丈に「ママは、綺麗だからきっとまた良い人と巡り会えるよ」と言ったが、やはり父を亡くした悲しみとショックは大きかった様でベット上で号泣していたと言う。

1984年に発表された、父ジョンやエルヴィス・コステロなどによるヨーコの楽曲をカヴァーしたものを集めたコンピレーションアルバム、『Every Man Has A Woman~ジョンとヨーコの仲間たち』で初めてレコード・デビュー。

1988年にビートルズがロックの殿堂入りした際には、ビートルズのジョージ・ハリスンとリンゴ・スター、異母兄ジュリアン・レノン(ジョンが前妻とのあいだにもうけた長男)などとともにその授賞パーティに姿を見せた。また同年公開のジョンの伝記映画『イマジン ジョン・レノン』、マイケル・ジャクソンの主演映画『ムーンウォーカー』などにも出演し、話題を呼んだ。

ジョンが亡くなってから10年後の1990年には、ヨーコや佐野元春などによる企画盤『HAPPY BIRTHDAY, JOHN』に参加。1992年には(ジョンがショーンに捧げた「ビューティフル・ボーイ」がCFソングとして流れる)資生堂のCMに出演している。

1994年にジョンがソロ・アーティストとして殿堂入りを果たした際にも、ポール・マッカートニーと共に母子揃って授賞式に出席している。

1990年代中盤からは音楽家としての活動を本格的に始動。1991年のレニー・クラヴィッツのアルバム『ママ・セッド』ではゲスト参加し、母ヨーコのアルバム『ライジング』(1995年発表)ではバックバンド「IMA」として演奏面でも全面的にサポート。また、チボ・マットのサポート・メンバーとしても活躍した。

1998年にはビースティ・ボーイズが主宰していたグランド・ロイヤル・レコードから初のソロ・アルバム『イントゥ・ザ・サン』を発表(プロデューサーはチボ・マットの本田ゆか)。これといったヒットにこそならなかったものの、評論家の間では概ね好評を博した。同年に本田らチボ・マットのメンバーを従えた来日公演も行う。来日時に出演したフジテレビ系の音楽番組、『LOVE LOVEあいしてる』の1コーナー「プリプリプリティ」で、篠原ともえと友達になる。ショーンは自身のミドルネームにちなんだウルトラマンタロウのイラストを描いて見せ「ボクノ、ナマエハ、タローデス」と日本語で自己紹介している。後日篠原は、ショーンのステージにゲスト参加した。その影響からかショーン自身何度か「シノラー」化(ウサギ耳にアニメのTシャツ、アクセサリー、可愛いデザインのZO-3ギターなど)したこともある。

翌年には日本限定で東芝EMIより同作からのバージョン違いやリミックス、アウトテイクなどを集めたミニアルバム『ハーフ・ホース、ハーフ・ミュージシャン』が発売された。(元々はアメリカ国内向けに作られたプロモーション・アルバムで、発売用に8曲目を追加したもの)

2001年にグランド・ロイヤルが閉鎖した後はキャピトル・レコードと新たに契約を交わしている。その後の活動は再び他アーティストの作品のゲスト参加が主となり、自身のソロ作品は長い間発表されなかった。

2005年には、村上龍の同名小説が原作の映画『コインロッカー・ベイビーズ』に、浅野忠信らとともに出演する予定であることが日本のスポーツ紙に報道された。共同脚本にも参加している。

2006年9月26日にアメリカで、2作目のソロ・アルバム『フレンドリー・ファイア』が8年ぶりにリリースされる。 1枚目よりおとなしめの曲調が多い作品となった。

その際、「今となっては浅はかだったが」と前置きした上で、自分が少年時代からのニルヴァーナファンで、ドラムのデイヴ・グロールに「ニルヴァーナに入れてくれ」と手紙にデモテープを入れて頼んだ事があるのを明かした。返事は「君の送ってくれた音楽をいつも聞いているけど、フー・ファイターズという新バンドをやるので出来ない」というものだったが、新バンドが出来ることに喜んだという。「この方向がもし違ったら、自分の2枚目のアルバムが出来なかったかもしれない」と語っている。

2007年8月には東京・大阪で行われたサマーソニック出演のため来日。次いで11月23日~30日には、東京・大阪・福岡のビルボード・ライヴにて単独来日公演を行う予定であったが、本人の都合により中止となった。

2008年5月ホンダ・フリードのCMに出演(ちなみに異母兄のジュリアン・レノンも1980年代にホンダのCMに出演したことがある)。

2009年9月より、ヨーコ・オノらと共にYOKO ONO PLASTIC ONO BANDのバンド名義で活動。日本に長期滞在し、『徹子の部屋』などのTV番組に出演。11月には東京国際フォーラムでライヴを行った。 .

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